nomuran's diary

野村直之のはてな日記(後継ブログ)です

依存と信頼の違いについて

劇作家・演出家で自称「恋愛王」の鴻上尚史氏の古いエッセイから、
エッセンスを圧縮してとりだし、若干、補足的なフレーズで補って、
恋愛以外にも適用できそうにしてみた:

「信頼と依存を取り違えてはいけない」

 −−石塚夢見作『ピアニッモでささやいて』より引用

「つくす側」にいても「つくされる側」にいても、そこに居続ける限り、
ファースト・ステップにすら達していない。

ファースト・ステップとは、無数の形の正解がある恋愛の何れかに
至る、たくさんの階段の第一歩のこと、と読める。


それはなぜなら、

「依存」の形であるから。 ・・・クールな「依存」もよく見かけるので要注意。

形に騙されてはいけない、ということであろう。
じゃぁどうやって見分けるか? 後ろの方で、
かなり実用的と思われるガイドラインが具体的に提示される。

「依存」は、実に楽なこと。
自分で考えるのをやめて、相手の言うままになる/相手に合わせるというのは、実はとても甘美で楽なこと。判断を任せてしまえば、そこには責任も苦しさもない。

「O嬢の物語」に奴隷状態における精神の幸福、というフレーズが何度も出てきたが、表現やみかけこそ違え、本質は同じようである。一見普通のシーンでいえば、例えば、仕事上で何か指示されて、「あぁこれなら何も考えずにできる」と顔に書いてありそうな、無上の喜びを示す人がいた。

だからこそ、少し油断すると人はすぐに「依存」に進みがちなのである。

これが一番恐ろしいところ。


しかし、「依存」には、必ず、突然の終わりがくる。
なぜなら、「依存」される方の都合をまったく考えていないからである。

相手に突然終りを告げられてびっくりしてしまったり、「実は相手はまだそうやって自分をきりきり舞いさせようとしたり意地悪しようとしているのではないか」と思ってしまう人は、どっぷり依存していて、且つ、自分が依存していることに気づいてすらいない可能性がある。

距離と時間で「依存」は簡単に壊れるが、「信頼」は耐えうる可能性がある。
だからこそ「信頼」は苦しい。そこには責任と重さがあるから。

全くその通り。健常な人は、幼少期から親に愛され、励まされて、少しずつ上の責任と重みを増して、それを背負うのが当たり前に、平気になって成人するものだろう。

この苦しさを打開する1つの案として、べたべたした「信頼」が有り得るのでは、と考えた。
見つめ合って 、うるうるして「信頼」し合っている恋愛を目指してはどうか。
それは依存する側でもされる側でもない。

この解決法が出てくるのがこのエッセイのすごいところ。


例えば美味しいご飯ができている【はず】だ、と思って出来ていないとき怒りだすのが「依存」。
できていなくても怒らないし、要求も反省も迫らないのが「信頼」。

この、見極め法、判定のガイドラインが経験則的にわかりやすく提示されているのもすごい。
その理由は:

なぜならそこには必ず相手の「理由」があるから。物理的事情から、心のもちかたまで。
だから、「信頼」していれば「理由」を尋ねれば済むこと。

この相手が「忙しい」という返事であれば、具体的にピンチである可能性が高い。もちろん、訊けば具体的に教えてくれる。が、その中断が無意味なもので(ただ訊いてみただけ)、相手を落胆させたなら信頼は低下する。つまらないことで「信頼」を試された、とわかれば誰でもがっかりするし、白けるから。具体的に説明するには時間がかかるから、猛スピードでまくしたてざるを得ないかもしれない。それを「怒っている」とか「不機嫌」と解釈するのはさらに輪をかけて失礼なこと。相手の疲れは倍加し、ボディブローのように、信頼が損なわれていく。

「依存」の場合、相手の事情いかんによらず一方的な怒りや要求となる。
「依存」からはコミュニケーションは生まれない。すねて怒って甘えるだけ。

そう。自分だったら怒りそうなことだから、相手も怒っている、と解釈しているのかもしれない。
実際には、よく相手の目の奥を見れば悲しい色が漂っているのに違いないのに。

「信頼」はコミュニケーションを生む。
 ・何があったの?
 ・何を思って/考えているの?
 ・何がしたいの?

これらの鴻上氏の質問の例は、ちょっと相手への負担が大きい。
一番もっともらしい仮説の下で、Yes/No questionから入るのがずっと賢いし、
メタレベルで、相手への気遣いを伝えることもできる。回答をはっきり
させるのが嫌いな人はそもそも信頼関係でなく依存に近いため、
付き合いを見直した方が良いだろう。そうでなく、相手を高潔な
人格と信じるなら、互いにとって(第一義的には相手にとって)
有用な質問を発してみるべきである。この苦労で始まるのが
コミュニケーション。楽な方、安きに逃げる人間は、結局まともな
コミュニケーションができない、ということである。


恋愛の難しさは、どちらか一方が「信頼」のプロセスをすっとばして「依存」し始め、コミュニケーションがぶち壊れてしまうところにある。

先の連ドラ「いもたこなんきん」の主人公が、「喋って喋って喋ってもまだ
しゃべり足りない、というくらい相手に質問し回答を得る、というキャッチ
ボールを一生続けなければだめ」と言っていた。どれほどの素晴らしい信頼
関係であっても、一時の油断も許されない、手抜きは許されない、という
ことであろう。

だからこそ、国際結婚で、出身文化も言語も違う同志が案外巧くいくのかもしれない。
毎日努力していなければ、日常生活にも支障が出るのだから。

以上は、恋愛に限らず、オフィスでの人間関係に当てはまるところもあるかもしれない。

いずれにせよ、誰かが「依存」に陥るのを未然に防ぐ「システム」、施策を考えたい気がする。
「気をつけます」「頑張ります」の精神論は何の対策にもならない。せめてcheck listは欲しい。

構造的に依存に陥りやすい人、ケースをどのように、構造的に陥りにくいように変化させるかのマネジメントの方法論だってあって良いはず。
家庭と違って、職場というところでは、「共依存」なんて滅多に起こらないはずだが、片方向の依存を断ち切るガイドラインがあれば、稀なケースにも対応できるはず。

精神医学はこのような、世の中、産業界における実用的な処方を研究している気配がなくて少し残念だったりする。