nomuran's diary

野村直之のはてな日記(後継ブログ)です

R.Schumann 16: 「悪い作品を弾いてはならない。・・そうした作品に

音楽で心得ておくべきこと 16

「悪い作品を弾いてはならない。やむをえない場合でなければそうした作品に耳を傾けるべきではない。達者とか、いわゆる華やかな演奏というものに、決して惹かれないように。作曲者が心にもっていた印象を曲で表すようにしなければならない。それ以上を求めてはいけない。それを越えると漫画になってしまう。」(R.シューマン)


15「悪い作品を普及させてはならない。」と似て非なるメッセージです。まず、メッセージの届け先、相手が違うと思われます。15は、評論家やプロデューサー、プロモータ、楽譜出版社などの音楽流通業者(?)、影響力あるシニアな鑑賞者、などを思わせます。でも、16は、音楽を勉強している子供に直接伝えたいメッセージ、でありましょう。

入門者、あるいはアマチュア演奏家が演奏しなければ、ステレオ再生装置の無かった19世紀の当時は、作品が評判を呼んで普及していく可能性は十分に阻まれる、という事情だったのかもしれません。ただ、16のメッセージは、普及の阻止ではなく、作品を演奏する子供自身にとっての悪影響を懸念し、それを払拭することを目的としているように思われます。


プログラミングの勉強にあてはめてみると、出来の悪いソース、設計図などを読んではならない、と翻訳できそうです。「やむをえない場合」とは何でしょうか。出来の悪い作品であっても、その機能を備えた作品が他に無いのでやむをえず、、ということはあるでしょう。

音楽の場合に、品位、完成度、芸術性、等で良い作品ではないけれど「やむをえず」演奏することになるのはどんな事情でしょうか。1つ考えられるのは楽器編成の問題です。あのモーツァルトも旅先で遭遇した楽団向けに次々と作品を書きながらも、「あぁ、この楽団にもクラリネットがあったらなぁ。。」などと述懐したりしています。

例えば、若い才能溢れるバイオリン奏者が室内楽の修練を志して一期一会の貴重な練習の機会をものにしようとしている、とします。その際に、いくらクラリネット5重奏曲が明らかに良い作品だと皆が認識していても、ホルン奏者と、ビオラ2名、チェロしかいなかったら、数段劣るホルン5重奏曲を題材として取り上げるしかありません。もちろん、ホルン5重奏曲も決して悪い作品ではありませんので(笑)、シューマンさんに反対されることはないでしょう。


「達者とか、いわゆる華やかな演奏というもの」とは、外連味のある演奏、下品なデフォルメを伴うような歪曲した解釈による演奏、というニュアンスでしょうか。即興でアレンジして変奏曲をモノにする、という水準でもない限り、「作曲者が心にもっていた印象を曲で表すようにしなければ」演奏は失敗しそうです。


「それ以上を求めてはいけない。それを越えると漫画になってしまう。」
うーむ、、これに相当するITのパフォーマンス、プログラミングの局面は何でしょうか。
その言語本来の流儀を台無しにする(モダンな言語でGoto文の塊に相当するスパゲティ・プログラムを作るとか)、オブジェクト指向言語オブジェクト指向設計を無視する、先人の優れたデザイン・パターンが明らかに使えるところを、それと異なる、劣った設計、低品質で判読困難な実装をしてしまうような自己流、ということになるでしょうか。

音楽の場合ほどぴんとこない理由は、おそらくは、上記のような自己流を好んで意固地に行う人があまり見あたらないからでありましょう。殆どの場合、本人は気づかずにそうなっている、というわけですから。その意味で、やはり、シューマンのメッセージ16は、プログラマにとって示唆的といえると思います。


「言語や設計思想、デザインパターンのオリジナルの優れた特質を尊重し、その存在を意識して、積極的に学ぶようにしなさい。これらが存在しないかのごとくに振る舞う無知や、『教えてもらっていない』などの他律的な甘え、無責任は学習者としても褒められたものじゃない。」
(野村直之@メタデータ