nomuran's diary

野村直之のはてな日記(後継ブログ)です

R.Schumann 17: 「すぐれた作曲家の作品で、どこかを変えたり、省略

音楽で心得ておくべきこと 17

「すぐれた作曲家の作品で、どこかを変えたり、省略したり、あるいは流行の飾りをつけたりするのはいけないことだ、とわきまえておきなさい。こうしたことは芸術に加える最大の侮辱である。」(R.シューマン)

だんだん、シューマンさんが作曲家の本性を露わにしてきた、というか、偏屈な、頑固な、保守的な感じになっているかのようで、ITの話題にマッピングするにしてもちょっと辛いです(笑)。

この17は、先の16の「悪い作品」への心構えの裏返しで、じゃぁ「良い作品」にはどう対峙すべきか、ということになります。

映画「アマデウス」で、Tom Hulse演じたモーツァルトが、後宮からの誘拐の初演後のオーストリア皇帝の"Too many notes!" というコメントに対し、「じゃあ、どの音符が邪魔で、削るべきか指摘してください。」という論理的に追いつめる発言をしていました。これはもちろん反語で、モーツァルト自身は、無駄な音符など1つも無い、と言っているわけです。もちろん逆に、舌足らずで、書き足りなかった音符もない。完璧な作品であり、ほんのわずかな改変も、その作品を台無しにしてしまう。こう確信していたという、強烈な自負を物語るエピソードでした。

今を去ること約四半世紀前、まだ存命中だった芥川也寸志先生指揮の新交響楽団のホルン吹きとして、邦人作品の世界初演を請け負う機会が何度かありました。確か、「東北の作曲家」特集だったか、、ある朴訥とした作曲家の先生が横でリハーサルを聴いているのに対し、指揮者の芥川先生が、「この総譜のこの部分は不自然ではないか?こう変えてはどうか?」と、自らも作曲家としてコメントしたことがありました。

その作品の作曲家は深くうなずいて曰く、「はい。作品は一度創造者の手を離れたら独自の生命を持って一人歩きするものです。いかようにでも勝手に変えて演奏してくださって結構です。」

これは、上記のモーツァルトシューマンの見解とは、およそ正反対の考え方でしょう。
マッシュアップや、古くからの言葉、コラージュや、パロディ、編曲モノといった2次著作物を認め、後に続く者の創意工夫を促すには、こちらの考え方の方が適切なような気がします。


別の女流作曲家に対して指揮者が「うーん、このホルンの音域には無理があり過ぎ。オクターブ下げても全然効果は変わらないのでは?」と尋ねたら、「いえ、このhigh D のpianissimoソロは、この音程でないと意味が違ってきちゃうのです。」という回答が返ってきたこともありました。

困りました。どこで線をひいたら良いでしょうか。
今、必死に、当時の初演の作品をいくつか脳内で鳴らして、どの1音の改変が作品の統合性integrity)を損なうもので、どれが、あるいはどのモジュールの、どのような改変なら許されるのか、、ケース・バイ・ケースとしか言いようがないのかもしれません。

沢山の人がよってたかって改ざんした結果、多数のヴァージョンが出現しちゃったブルックナー交響曲群。本質的な違いは無いようなバリエーションから、本当に同じ曲か?と疑われてしまうほど全然違う楽章に置き換わっていたりもする例(4番など)もあります。

シューマンさんは、改変の動機を問題にしていたフシもあります。演奏会の時間の都合で強引にカットするとか、余計な飾りを付けるとか。演奏者が作曲家の意向を無視したエゴを発揮するとか。

ソフトウェアについてはどうでしょうか。
オリジナルを改悪して、しょーもないライブラリとして使われたとしても、それは使った人間の自業自得。
唯一問題なのは、そのような改悪結果を、オリジナル作者の名を冠して「誰々の作品です」と触れて回るのが名誉毀損っぽい、というあたりでしょうか。まぁ、普通の人は、どんなに改変されるとしても、どんどん引用されるようなソースやドキュメントを生み出せたら狂喜乱舞、感涙にむせぶべき、といえでしょう。自分の作品が本当に改良されたら、心から喜ぶべきです。

このことが当たり前ならば、やはりプログラム・ソースを著作権でだけ保護するのはどこかおかしい。読みやすさの価値、エレガントでセンスがあり、高機能で、、何よりも、「改良しやすかったよ!」というのを最大の褒め言葉として、オリジナルにも高い評価を与えられるような社会的仕組みが期待されるところです。Creative Commonsの仕組みの上位層に、なにか改変しやすさを高評価とするような、Web 2.0的なレーティングの仕組みを実装できないものでしょうか。


(野村直之@メタデータ