nomuran's diary

野村直之のはてな日記(後継ブログ)です

R.Schumann 03: 「拍子通りに弾くこと。多くの名人達の演奏は、酔っ

音楽で心得ておくべきこと 03

『拍子通りに弾くこと。多くの名人達の演奏は、酔っぱらって歩いているようなものだ。そんなものはお手本にならない。』

この3番目も、基礎の大切さを語っているように聞こえます。

音楽の3要素、といえば、リズム(拍子)、和声、そしてメロディ。

そう、この順番に必須、ともいえます。メロディらしからぬ和声だけが進行しているような作品は、パッヘルベルのカノンから、エンヤのインスツルメンタルに至るまで、たくさんあります。メロディが和声にのって美しいハーモニーを作る。。しかし、それ以前に、3要素の中で本当に不可欠なのはリズムです。時間進行を何らかに区切るリズムの無い音楽はありません(ジョン・ケージの「4分33秒」なんかは例外でしょうか)。

拍子の大切さを訴えるのは、独奏における基礎中の基礎を語っていることになります。合奏の基礎的要素としては、拍子が揃う以外に、音程(ピッチ)が揃う必要が並び称されるでしょう。昔、音楽を褒める美辞麗句(「豊かな音色」etc. )を少しずらして皮肉って、
「豊かな音程」(ずれまくって何種類ものピッチがある)、「多彩なリズム」(全然揃っていない)という自虐的ジョークを仲間内で語ってウケてたことがありました。

でも、真剣に戻ると、笑い事じゃありません。モーツァルトも、同時代のいい加減な音程(欧州の都市ごとに基準ピッチがバラバラだった時代です)には大変厳しい態度で臨み、正確なチューニングを課した、といわれています。リズムも同様だったことでしょう。メトロノームが発明されたのは確かベートーベンの時代でしたが(交響曲第8番のチャーミングな2楽章がメトロノームの可愛らしさ、楽しさを描いている)。

シューマンの言葉の後半は、少々時代を反映している、といえるかもしれません。テンポ、リズムを揺らしまくって、その度合いが大きければ、あたかも優れた演奏のように受け取る風潮はおかしい、と。

たしかに、音楽、とくにクラシックは、規範的な動きを、ある幅の範囲で、微妙に、繊細に変化させることで豊かな表現を生み出す、という性質があります。部分的な特徴を誇張、、、たとえば、日本人がウィンナワルツの物真似をして、2拍目を前に出してやたら早く弾いても滑稽なジョークに聞こえるだけ。

学生時代、某オケに突然とびいりで、当時VPO首席ホルンだったギュンター・ヘグナー氏が練習に入ってくれたとき、青きドナウで日本人が上記をやらかしているのを見てニヤリと笑った彼は、それをさらに思いっきり誇張し、んったた、んったた、とほとんど2連符みたいにして吹いてくれ、周囲に気づかせてくれたりしました。

今回は具体的なメタファはやめておきます。
ただ、ビジネス・プレゼンで、妙に米国人の真似をして、おおげさに、肩をすくめて「Oh!」と言ってみたり、がかなり恥ずかしい、なんていうのは通じるところがあるようです。もっと中長期的スパンで、学問、研究を遂行するスタイルにも、みっともないスタイルは沢山あるでしょう。まぁ、プロセスより結果重視の世界では、スタイルや美意識はどうでも良い、という説もありますが。絵画にも、同様の美から逸脱した誇張はありそうな気がします。となると、写真や映画も同様かもしれません。

自然な表現をつないでいって、その結果が全く新しいものとなること。全体としては陳腐でない独創的な斬新なものを作り上げよう、というアプローチをとりたいものだ、という気にさせられませんでしょうか? またまたシューマンの言葉の深読みでした!(野村直之)