nomuran's diary

野村直之のはてな日記(後継ブログ)です

論語 知る 好む 楽しむ →好きでない物事を楽しめるか?

起業の原点を探りつつ、「論語 知る 好む 楽しむ」でGoogle検索したところ、26,000件のヒット。
 
なにごとであっても、それを知る者より好む者、好む者より楽しむ者のパフォーマンスが勝る、という意味のことを読んだのが、「子曰く」で始まる一節だった覚えがあったので検索してみました。いかに多くの日本語使いが、この言葉を思い出す重要性を感じたかが伺えます。
 
本日トップに来ていたのは、ブログのタイトルがずばり「知る 好く 楽しむ」となっていた民主党藤末さんのブログ。
http://www.fujisue.net/archives/2006/05/post_1311.html
彼は、ビジネスモデル学会で当初事務局長をやられていて当時お世話になって以来のおつきあいです。議員になられた後も、私の大学のアドレス宛に「健ちゃん通信」他の印刷物を送ってくれたりしております。※当方から寄付はしておりません。

人も道を好むようになりさえすれば、おのずと道に向かって進み、道を実際に行い得るにも至るものである。
されど、好むだけでは、もし道を行うに当り中途で困難に遭遇すれば、その苦痛に堪え難くなって、道を行うことを廃止してしまう恐れがある。
もし、それ衷心より道を楽しむ者に至っては、いかなる困難に遭遇するも挫折せず、いかなる苦痛をも苦痛とせず、敢然として道に進み、道を実行して往けるものである。
【注】 『子の曰く、これを知る者は、これを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。』: 論語 雍也第六20

ほぼ引用と注釈のみで、ご自身のその日の出来事や過去の体験を全く書かれていないところに意味ありそうに感じます。
もしかしたら他の方のブログもそうかもしれません。きっと、自身に対して改めて肝に銘じたい何かきっかけがあったことでしょうが、ネガティブなエピソ−ドは、ポジティブなエピソードの裏側に透けて見えるため、書く必要がない、ということか。
 
私も、その辺は控えさせていただき、今後のパフォーマンスでみていただくとして、少しだけこの文言について考えたことを記します。
 
孔子の言葉は一見すると:
 知る < 好む < 楽しむ
といっているだけのように見えます。
 
実際にあり得る状況を考えてみると、
ある物事を好む人は必ずしも、「知る人」ほど、その物事をその時点ではよく知らない、という含みがあるように思います:
 
 知る人の知識量 >> 好む人の知識量 
 
しかし、ここから出発してもいずれは逆転して、
 
 知る人の知識量 << 好む人の知識量 
 
となるであろう、という含みにつながる感じです。ここまでは一般によく流布している考えかと思います。
 
 
同様のことを、「好む vs 楽しむ」の関係にあてはめてみるとどうでしょうか。
 
「ある物事を好んでいないのに楽しんでいる状態」がちょっと想定しにくい気がしませんか?
 
しかし、演技に近い行動(英語ではどちらも "act" ですね)、自らを鼓舞するために、最初は気乗りしなかったけれど半分演技で楽しんでみせる、みたいな状況ではあり得るように思いました。
 
フリをする、とか、形から入ると中身が付いてくる、とかいうと、プログラミングの世界では Duck typing を思い出します。その言語をよく知らないのに見よう見まねで書いているうちに、次第にちゃんと理解して書けるようになる、という含みがあるようです。
 
デールカーネギーコースでは、
"Act enthusiastic, and be enthusiastic!"
と何度も唱えさせられました。
 
enthusiasticは「好き」の強烈なバージョン、最上級みたいなものですね。
両手をふりながら熱狂的に何度も唱えていると本当に前からそのことが好きだったような気になってきます。
 
つまり、「楽しむ」ようにふるまう、仕事する、ことによって、自分が本当に好きだったかどうかよくわからなかった物事も好きになっていくのではないか、という仮説が、どうも経験的には正しいのでは、ということであります。
 
上記と同様に描くと:
 
 前から好んでいた人の好きな度合い > 楽しむように行動し始めた人の好きな度合い 
 
 前から好んでいた人の好きな度合い < 楽しむように行動し続けた人の好きな度合い 
 
となるでしょうか。
 

この仮説を自ら体感的に検証する機会もありそうな気がします。